C-Macksの自論展開

日々の物事に対し、情報を収集し自論を述べていくものです。賛同意見・反対意見は歓迎しますが、暴言・脅迫・罵詈雑言はお断りです。

自分という価値を上げる方法

自分の価値ってどんなものだろう?一度は考えたことがある事柄だと思います。皆さんはこの自問に答えは出ましたか?出てない人も多いと思われますが、人それぞれに特有の価値があります。ヒトという生き物は欲深き生き物です。自分の持つ価値を上げようとしますが皆さんはどのようにされていますか?

この点について自論を述べていきます。興味ある方だけ続きをどうぞ。

前述したように、個人それぞれに特有の価値が存在しており、本来は比較することのできないオンリーワンのものである。それにもかかわらず、ヒトという生き物は他人と比較して自分が上だの下だのと一喜一憂している。ヒトは欲深いもので、自分という価値を他人に認めさせたい、優れていると思わせたい、ナンバーワンになりたいなど、他人より優位に立ちたい生き物なのだ。

さて、本論に入ろう。「自分」という価値を上げるにはどうしたらいいか。大きく分けると2つのパターンがある。一つは「自分の価値・能力を磨き上げ、成長して上げる」方法である。もう一つは「自分を磨かず、他人を蹴落とす」方法である。前者は読んで字のごとく、自身の努力・研鑽によって自分という存在を成長させ、輝かせている。こういう人材は何人いても良いし、こういう人材が1人でもいれば、感化されて同じように努力・研鑽する人が増えていく。切磋琢磨をするようになり、時には褒め合う間柄に、時にはライバルの間柄となって互いに成長し合っていくのだ。そして社会の発展に大きく寄与していくのだ。一方後者は、自身の努力や研鑽をしないばかりか、努力・研鑽しないことを社会や他人のせいにするなど言い訳ばかりする。挙句には、自身より優秀な人を見つければ、その人の短所をつつき、悪口やフェイクを吹聴して尊厳を傷つけたり評価を落としたりすることで、その人より良い立場でいたいという自己満足だけの行動をとるのだ。良い評価を落とせば全体の評価も落ちることつながり、最終的には社会の没落・崩壊に寄与するのだ。

では、前述した2つのパターンのうち、我々日本人の多数派はどちらだろうか。答えは後者の「自分を磨かず、他人を蹴落とす」方法が多数派である。特に高度成長期を生き抜いた世代に多く見られる。この世代は「自身の努力より会社や社会に身を捧げる方が、日本は良くなる!」と信じ、現に日本は大きな経済成長を遂げた。ここまでだったら美談となるのだが、晩年に「誰のおかげで今の日本があると思うんだ!敬え!自分の地位を脅かすな!」と永代吹聴してのけぞり、地位を脅かす存在が出てくるたびに不当に評価を落とす行為をして蹴落としているのだ。この姿を見ている次の世代も同じようにマネをして地位の保持に全力を注ぐようになったと推測する。蹴落とされた側は能力を発揮できないばかりか、否定されたと感じてしまえば鬱などの精神疾患でつぶれてしまうだろう。もしつぶれてしまえば、それは社会や日本の国益にとっては大損害である。しかし蹴落とす側は、自分の地位さえ守れれば問題ないとの考えしか持ち合わせていない。非常に視野の狭い話である。日本人にとっては「自己犠牲こそ最高の美徳」という考え方が「他人を蹴落とす」ことへの最大の元凶だと私は考える。厳密にいえば「何もせず、現状維持」が日本人の多数派だが、ここではこれを考慮していない。

一方で、「自分の価値・能力を磨き上げ、成長して上げる」方法をとる日本人も少数派ではあるが存在している。ただ、この方法をとっている人のほとんどは日本国内に居住せず、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどの欧米の先進国に居住している。これらの国では蹴落とす者よりも能力を磨いた者を積極的に受け入れる傾向が強く、ポストを創設してまでも受け入れる姿勢を見せる。これは、「こういう人が国益となり、国を繫栄させる」ことを見出している証拠だ。GDPや引用論文数の数字にも顕著に表れており、アメリカやイギリス、ドイツなどは順調に伸びているが、日本は伸び悩んでいることからも明らかである。中国の成長も目覚ましいが、これは国益になる一部の人に対して国からの援助が凄まじくあることが特徴となっており、人種的に見たら日本人と同じ「蹴落とす」側が多数派である。

我さえよければ良い、そんな考え方がいわゆる優秀な人材をダメにする。誰かを蹴落とすことは自分の価値、地位を上げることにつながるが、大きな視点で見れば全体の社会的価値を下げることになる。自分磨きで自分の価値を上げる方が、誰も不幸せになることなく全体の社会的価値の向上にもつながる、ALL WINの関係にあることに気付いてほしいものだ。「老いては子に従え」昔の人のほうが現代人より賢かったのかも…。