C-Macksの自論展開

日々の物事に対し、情報を収集し自論を述べていくものです。賛同意見・反対意見は歓迎しますが、暴言・脅迫・罵詈雑言はお断りです。

倫理観だけで性別変更を許してしまうのか?

10月25日、最高裁判所にて性別変更の手術要件に関して「意思に反して体を傷つけられない自由を制約しており、手術を受けるか、戸籍上の性別変更を断念するかという過酷な二者択一を迫っている」として憲法に違反して無効だと判断しました。歴史的転換とも呼べる判決ですが、自分は賛同できません。その理由を自論とともに展開したいと思います。

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そもそも性別変更に手術要件を設けていることの意義を考えてみる。生物学的にみると、オスの特徴、メスの特徴は外観で判断できることが多く、多くの生き物でそれは見受けられる。ヒトも例外なくそうである。また、生殖機能についても胎生であれ卵生であれ、オスはオスの役割、メスはメスの役割が存在している。それは太古より不変のものであり、本能的なものである。一方で現代の性別変更の考え方は、倫理的なものである。倫理はヒトの生き方のルール・考え方であるため、理性的なものである。そのため必ずしも生物学と相入れるものではない。手術要件の意義は、前者の生物学的な見地より設けられた要件と言えよう。

本来性別変更という現象は、進化の過程において、厳しい生存競争を生き抜くために必要になった生き物に見られる現象である。そのような生き物においても、外観や生殖機能はその性別に合ったものに変化しているのである。ヒトには厳しい生存競争がなかったために、性別変更は必要なかったのだが、意識すなわち倫理的なものが性別変更を求めているのである。しかし、生物学的な面と齟齬が生まれるために、その齟齬をなくす要件として選ばれたものが無理やり変更する性別適合手術である。

ただ性別適合手術を拒否したいマイノリティの方の気持ちも理解はできる。費用の面もそうだが、できるものなら身体に傷を入れたくないことは誰もが望むことである。もし手術を拒否するのなら、生物学的な面と倫理的な面との齟齬をなくす別の手段が必要となる。これは政治家も危惧していることだが、「戸籍上は男なのに出産した」「戸籍上は女と偽って女性用の場所に入り、わいせつ行為に及んだ」などの弊害をどう対処するかが問題となる。一例として、公衆浴場における扱いを厚生労働省が通知を出しており、「公衆浴場においては、外観で性別を判断する」としている。裁判の弁護側の証言の中に「ホルモン療法により、既存の生殖機能は著しく低下している」とあったが、機能が著しく低下しているのであって、なくなっているわけではない。そのため、種の危機、生命の危機があれば、意識に反して生殖行動が可能であるということを示唆している。このような問題をどのように対処するかを、立法府や行政にばかり委ねて、当該マイノリティの方も弁護士も全く示していないのである。私から見たら無責任も甚だしいのである。当該人をはじめ、他のマイノリティの方にも関わることなのだから、通る通らないは別にして何かしらの対処法を示すべきである。当事者が示すことで議論が深まり、より良い方法が導かれることが多々あるためである。委ねておいて「こんなものは違う」と言わないでもらいたい。

性別変更は非常にデリケートな事項であり、性的マイノリティの方には自分らしく生きたいと示す重要な事項である。倫理の問題は時代とともに変わっていくものだが、マイノリティ保護を優先するあまりにマジョリティ(多数派)を反故にすることは、社会を崩壊させるきっかけとなりうる。今回の判決を私が賛同できないのは、マイノリティ保護にばかりに言及し、マジョリティに対する言及がないこと、そしてマジョリティに全ての対応を委ねている点である。今回違法とされた法律も、マジョリティである人らが社会を混乱させないようにと思い、マイノリティである人にもある程度受け入れられる内容で制定したものである。違法と判断された以上、頼りになるものは諸外国の法律やルール、そしてマイノリティの方の思いや意見、主張である。多様な意見をぶつけ合うことで、お互いに折り合える法律やルールができると私は信じたい。