C-Macksの自論展開

日々の物事に対し、情報を収集し自論を述べていくものです。賛同意見・反対意見は歓迎しますが、暴言・脅迫・罵詈雑言はお断りです。

失敗を許さない国、ニッポン(前編)

隙間時間で書いているため、投稿の間隔が空いてしまっています。また、文章を書くことに不慣れなので、余計に時間がかかってしまっていますが、これもやらなければ上達しませんので、日々精進しています。というのも、失敗をしてそこから学びをする、「失敗から学ぶ」を繰り返すことで人は成長していくものです。しかし日本という国は「失敗する」ということにかなり不寛容です。前編では「なぜ失敗することに不寛容なのか」、後編では「失敗すると日本社会ではどう扱われるのか」、それぞれ自論を述べようと思います。

まずは「なぜ失敗することに不寛容なのか」という点で自論を述べていきます。興味のない方はブラウザを閉じてください。

「失敗は成功のもと」という言葉があるように、ヒトは太古より多くのことを試し、失敗しては改良を繰り返し、成功を掴み取ってきた歴史がある。かの有名な発明王エジソンも例外なくその1人であり、数多くの発明品を世に出した反面、その数百倍の数があると言われる失敗作も生み出しているのだ。政治の場においても政策が必ずしもうまくいかないことは多々ある。原因をしっかり検証をすることで今後の政策に役立てて、よりよいものを打ち出せるのである。「失敗」こそ最高の学びの場である。

さて、冒頭にも述べたように、日本という国は「失敗する」ことにかなり不寛容である。様々な要因が考えられるが、私は次の二点が大きな要因であると考えている。一つ目は、高度経済成長期の経験である。この時期は経済がのぼり調子だったこともあり、製品開発をすればほぼバズり、事業を立ち上げればほぼ成功していた。また、費やした時間がそのまま儲けにもつながっていたために、失敗を失敗だと思わなかったのだろう。これだけ成功に満ち溢れた時代は、人類史を見ても極めて稀であろう。このためか、この時期の経験者は、部下や若者が失敗すると「なんで失敗したんだ!」とすぐに咎める傾向にある。中には自身の成功談を自慢げに話し始め、あたかも失敗した者は無能だ、能無しだと言わんばかりの言動をする者もいる。成功しか知らない弊害なのかもしれない。

二つ目は、目先の利益だけを見て、将来性を考えていないことである。世の中の多くのもの、例えば商品開発や研究、政策などが、数々の失敗を糧に成功をおさめている。しかし、目先しか見えていない者には「失敗=損失」としか見えてない。そのため失敗をした人、すなわち損失を出した人を厳しく咎める傾向がある。またこのような人は、たとえ失敗があったとしても、誰かに失敗の責任を押し付けたり、失敗を無かったことにしたりして、失敗から学びをしようともしない。これが本当の「損失」であり、成功を掴み損ねたり、失敗が失敗を呼んだりするのである。短期間で得られる成果や利益を欲しがるのは誰もが望むことだが、そのようなものがあるなら誰もが成功者である。

後編では、「失敗すると日本社会ではどう扱われるのか」について述べていく。