C-Macksの自論展開

日々の物事に対し、情報を収集し自論を述べていくものです。賛同意見・反対意見は歓迎しますが、暴言・脅迫・罵詈雑言はお断りです。

失敗を許さない国、ニッポン(後編)

政治資金問題や能登半島地震などタイムリーな話題が多くあったので、順番を前後しています。

前編はこちら→失敗を許さない国、ニッポン(前編)

政治資金の問題は、1989年のリクルート事件が起こったことで政治資金のあり方を見直したはずなのですが、同じような問題がまたも起きてしまいました。これも「失敗からの学び」をやっていなかったことの証です。「失敗=損失」で終わらせないように皆様も心がけてください。
さて、後編では「失敗すると日本社会ではどう扱われるのか」について自論を述べていきます。興味のない方はお帰りください。

まず前提として、大半の成功者には必ず失敗談が付きものである。失敗から学びを行うことで成功者は成功をつかめているのである。失敗にある程度の寛容性は必要であり、社会の発展には欠かせないものである。前編で自論を述べたように、日本という国は失敗することにかなり不寛容である。言い換えれば、社会の発展を鈍らせている要因であり、人の成長も進まない要因ともなっている。日本が諸外国に置いていかれるのも無理はない。
残念なことに、日本人という人種は、格下のものを見下したい心情を持つ人種であると、様々な行動から推測できる。その一例として、日本では何かに失敗した人に対して「失敗者」というレッテルを貼って忌避したり、見下したりしてまともに扱うことをしなくなる。第二新卒という言葉がいい例であり、どことなく区別している感じがある。また江戸時代には、士農工商という身分制度があったが、この下に「穢多」と「非人」という身分も存在していた。おそらく何かの失敗者であり、庶民が見下す属柄として置いたと考えられる。このように日本においては、失敗する=見下されるといった概念が幾年にもわたって構築され、定着していったと考えられる。「見下されたくなければ、失敗をするな!」と常にプレッシャーがかかっているようなもので、結局それが多大なストレスとなっている。人も社会も成長できないのは当然である。
現代の日本社会における最大の失敗者は、犯罪の前科を持つ者(以下、犯罪者という)である。犯罪者はいつの時代にも存在はしているが、多くは更生して社会への復帰を果たしている。その更生の過程で大事となるのが、周囲の人の理解、サポートである。だが前述したように、日本人は見下したい心情があるため、たとえ更生し何事もなく過ごしている人がいても、犯罪の前科があると分かっただけで忌避したり、態度を豹変させたりする。これは見下せる相手が見つかり、優位に立てると確信したためと考えられる。この行為が犯罪者の真の更生を妨げていると言っても過言ではない。その結果が再犯であり、失敗が失敗を生み、抜け出せなくなる悪いスパイラルを生成するのである。社会にとっては決して良いものではない。ただ見下したくなる気持ちはわからなくはない。しかし、挽回する機会を奪う行為こそ真の犯罪者ではなかろうか…。
今回、「日本人は他人を見下したい心情を持つ人種」を軸に自論を述べた。「失敗から学ぶ」ができていない上、誰かを見下したい本性から、失敗者はずっと失敗者として日本社会では取り扱われるのである。特に現代社会では犯罪者がその標的となりやすいのである。近年流行りになっている闇バイトや強盗は、短期間でお金が得られる魅力と引き換えに今後の人生を棒に振る、大変愚かな行為である。「たった一回で」という声もいるが、その「たった一回」が今後の人生を左右する転機となって、人生設計を狂わす、それが日本社会の特徴である。しかし、今後の日本社会を向上させていくのであれば、失敗を失敗で終わらせず今後の教訓・糧・経験として活かすことに積極的に取り組まなければならない。
「失敗」にこそたくさんの学びがある!
まぁ、バブル期の恩恵を受けた者にはわからないだろうけど…